あらゆるものは生命の連続の中に生きる。
その連続の過程をどれだけ充たしていくことができるのか、
そこに生きることの意味があるといえよう。
生とは自然的生である。細胞の活動に支えられるものには、
すべて生がある。
それで生は、草の生い茂る形で示される。
一つの時期を過ぎて結節点が加えられると、世となる。
人の世の横への広がりは姓である。姓とは血縁関係をいう。
自然的生の中では、生きることの意味は問われていない。
その意味を問うものは命にほかならない。
命ははじめ令とかかれた。
礼冠を著けた人が跪いて、しずかに神の啓示を受けている。
おそらくは聖職者のものであろう。
その啓示は、神がその人を通じて実現を求めるところの、神意であった。
のちに、口(本文ではサイで、のりとを受け取る器の意)をそえるが、
その祈りに対して与えられる神意が命である。
生きることの意味は、この命を自覚することによって与えられる。
いわゆる天命である。
『論語』に「命を知らずんば、以て君子たることなきなり」というのはその意である。
当然として与えられたもの、それへの自覚と献身は、その字の形象のうちに
存するものであった。
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