2011年8月22日月曜日

前後際断 ~道元禅師の正法眼蔵~

禅語で良く耳にする、「前後裁断」。

過去と未来に囚われず、今を生きよう、といった意味で使われることが多いです。

果たして、「前後裁断する」なのか、「前後裁断で在る」なのかが気になって、
調べてみると、いろいろ発見がありました。

正しくは「前後際断」。

正法眼蔵の現成公案を読んでみると、前後際断は「万法に…」の後に出てくる。
(岩波文庫 正法眼蔵 P54~)

そこには、「自己を運びて万法を修証するを迷いとす」とある。

とすれば「前後際断する」では自己を運ぶことになるのではなかろうか?
というのがそもそもの疑問。

つまりは、「前後際断する」と万法を修証することになるのではないか?
ということです。

「万法進みて自己を修証するをさとりなり」とは異なります。

では、道元が現成公案でなんと言っているかといえば、
「前後際断せり」。

「り」は古語で、調べてみると動作が完了し、なおその状態が続いているとの
判断をあらわしているとのこと。

だから、「前後際断する」も「前後際断で在る」もある意味正しい。

では、なんの動作が完了した結果として状態が存続するのかといえば、
個人的には「身心脱落」の結果ではないかと思います。

これも正法眼蔵にある有名な一文。

「仏道をならうというは、自己をならふ也。自己をならふというは、万邦に証せらるるなり。
万邦に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

正法眼蔵では、文脈的にはこの後に「前後際断」が来るんですね。

ヨガの観点からみると、ヨガでひとまず最初に目指すところは、
肉体感覚の消失と心の作用の停止。

心の作用が停止した後に、改めて物事のあるがままの実相を捉えることができれば、
それが「前後際断」なのではなかろうか?というのがいまのところの自分なりの答えです。

その上で、過去に囚われず、自分そのものの素直な精神を発動して、
未来に向けて今をイキイキと生きることができたら本当に素晴らしいですね。







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