2011年5月18日水曜日

宿命・運命・知命・立命

命を知らねば君子ではないという『論語』の最後に書いてあることは、
いかにも正しい言葉であります。

命を立て得ずとも、せめて命を知らねば立派な人間ではない。

水から電気も出る。土から織物も薬品も出る。
これ水や命を人間が知って、立てたものであります。

自然科学は、この点偉大なる苦心と努力とを積んで参りました。

それにしては人間の道の学問、則ち人間の命を知り、
命を立つべき学問、自分の命を知り、自分の命を立つべき学問は
なんと振るわぬことでありましょう。

命とはかくのごとく先天的に賦与されておる性質能力でありますから、
あるいは「天命」と謂い、またそれは後天的修養によって、
ちょうど科学の進歩が元素の活用もできるように、いかようにも変化せしめられるもの、
則ち動きのとれぬものではなくて、動くものであるという意味において「運命」と申します。

運は「めぐる」「うごく」という文字であります。

しかるに、人はこの見易いことを見誤って、命を不動、宿命、則ち動きのとれない、
どうにもならない定めごとのように思い込んで、大道易者などにそれを説明してもらおうとする。

それでは天命でも何でもない。

人命にも物命にもおとるものといわねばなりません。

人間の天命はそんないい加減なものではなくて、修養次第、徳の修め方如何で、
どうなるか分からないのであります。

自然の物質の性能、応用が科学者の苦心研究によって、
はかることができないような神秘を解明いたしますように、人間の性質能力も、
学問修養の力でどれほど微妙に発揮されるか分かりません。

決して浅薄な宿命観などに支配されて、自分から見限るものではありません。

活眼活学
安岡正篤

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