2011年10月16日日曜日

北アルプス 燕岳 ~その1~

2011年10月8日~9日で北アルプスの燕岳(2,763m)に行って来ました。

今回は、テント泊です。夜は少し気温が下がりましたが、天気もよく気持の良い
山行となりました。


燕岳までは、北アルプス三大急登と呼ばれる合戦尾根ルートで登ります。
7月に甲斐駒ケ岳を黒戸尾根ルートで登った経験を踏まえての登山ということもあり、
気にすることなく登り始めました。

中房温泉登山口から早朝にスタート


紅葉の季節が始まったこともあり、この日は登山者が沢山。
北アルプスの入門コース、そのうえ、山頂付近にある燕山荘は、山ガールに一番人気の
山小屋ということもあり、ファッショナブルな女性が沢山登っていました。

合戦尾根は登り始めから急で、しばらくは、樹林帯の中を進んでいくのですが、
タイミングよくベンチが出てきますのでペース配分よく休憩することができます。

第一ベンチ

標高1820mです

登り始めていくと、鮮やかな紅葉が目に飛び込んできます。

銀杏もいろづいていました

第二ベンチ
燕山荘まであと3.8km

ベンチは30分毎に出てくる感じでしょうか?

 第三ベンチ

富士見ベンチ

富士見ベンチからの景色

紅葉が鮮やか


合戦小屋に到着です

合戦小屋の由緒書き

こんなことが書いてありました。
合戦小屋地名の由来

今を遡る桓武天皇の御代…
中房温泉、有明山に住む魏石鬼あり、自らを八面大王と呼称し妖術を使う大鬼雲を起し、
霧を降らし天を飛び、里に出ては財宝、婦女を掠奪し、山野に出ては社寺仏閣を破壊し、
狼藉三昧の明け暮れといわれた。

坂上田村麻呂、魏石鬼を滅ぼさんとするも魔力強く、敗戦の連続と思うにまかせず、栗尾
山の観音堂に願をかけ、霊夢をさずかる。

「三十三節の山鳥の尾で作った矢を使えば…」

甲子の年、甲子の月、甲子の刻に生まれた男矢村の矢助この尾を献上、ついに中房川上流
の谷間で大合戦の末、魏石鬼を打ちはたす。

合戦の沢、今の合戦沢をいう。

合戦小屋の下、深い谷間、その地に合戦の歴史あり、今を遡る桓武天皇の御代…

鬼の五体はバラバラに埋められ蘇生を防ぐ、耳塚、首塚、立足等、地名として今に残る。

山鳥の尾を献上した矢村の矢助、夫を魏石鬼に殺された母に育てられる。母は云う。

「命あるもの全て親子、夫婦の関係あり、殺さばなげくもの必ずあり。」

矢助、一切の殺生をせず成人し、ある時ワナにかかった山鳥を救い放つ。

その年の暮矢助嫁をめとる。三年後坂上田村麻呂との出会いとなる。
嫁のさし出す山鳥の尾を献上、矢助、永遠の生活を保証する恩賞を得る。

翌日、嫁一通の手紙を書き置いて姿なし。

「我、三年前に助けられた山鳥、高恩にむくいるべく、かしづくも、もはやその要もなし。
三十三節の尾羽は、我の尾なし。」と…

今を遡る桓武天皇の御代…
合戦の歴史あり、合戦の小屋の下、深い谷間。

ななかまども綺麗に色づいています

この日は天気がよかったこともあり、合戦小屋は超混雑。
小屋のご主人が「こんな人出はみたことがない!」
というほど。

「小屋泊なら早くいかないと素泊まりになるぞ、テント泊でもテン場が押さえられるか
どうか・・・」
「もし押さえられなかったらここまで降りてきな」

という、有難い(?)お言葉を頂戴し、ここから先はピッチをあげて登ることにしました。

目の前には槍の穂先

合戦小屋を超えていくと、槍の穂先が目に入ってきます。
北アルプスに来たんだなぁ~と感じる瞬間ですね。

快晴の元、見上げれば燕山荘

まるで丘の上にあるホテルのような雰囲気の燕山荘が目に飛び込んできます。
さらにピッチをあげて登ります。

ここまでくればあと少し。

燕山荘に到着
2763mの山の稜線ある山小屋とは思えないほどの混雑ぶり

受付をすませて混雑しているテント場でスペースを見つけ、設営開始。

足元にはすこし雪もありました

テント場から槍と燕山荘
イルカ岩とゴリラ岩も見えますね

日中は気温が高く、テントの中でノンビリ昼寝Zzzzzz。

日が暮れると流石に冷え込んできて、体感温度はほぼ2~3度といったところ
でしょうか。

同行のY澤さんと山メシ中

燕岳も美しい

帰りのバスの時間は12時10分ということもあり、登山道は混んでるし、渋滞している
ので、ご来光を見て撤収後下山というプランに決定。

食事を済ませて、シュラフに包まり、早々に就寝しました。

つづく


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